翻訳と辞書
Words near each other
・ ヘンリー・バージェヴィン
・ ヘンリー・パイク・ブイ
・ ヘンリー・パリス
・ ヘンリー・パーキン
・ ヘンリー・パーシバル・ドッジ
・ ヘンリー・パーシヴァル・ドッジ
・ ヘンリー・パーシー
・ ヘンリー・パーシー (ノーサンバランド伯)
・ ヘンリー・パーシー (ホットスパー)
・ ヘンリー・パーシー (初代ノーサンバランド伯)
ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)
・ ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)
・ ヘンリー・パーシー (第4代ノーサンバランド伯)
・ ヘンリー・パーセル
・ ヘンリー・パーマー
・ ヘンリー・ヒメネス
・ ヘンリー・ヒュースケン
・ ヘンリー・ヒル
・ ヘンリー・ヒース
・ ヘンリー・ビショップ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯) : ウィキペディア日本語版
ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)
第2代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー(''Henry Percy,2nd Earl of Northumberland'', 1394年2月3日 - 1455年5月22日)は、15世紀イングランドの貴族である。ヘンリー・パーシー(ホットスパー)とその妻エリザベス・ドゥ・モーティマー〔エリザベス・ドゥ・モーティマー:マーチ伯エドムンド・モーティマーフィリッパ・プランタジネットエドワード3世の次男クラレンス公ライオネルの一人娘)〕の子。初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの孫。
父と祖父がヘンリー4世に反乱を起こしたせいでノーサンバランド伯爵位は取り上げられたが、パーシーはヘンリー5世の好意で祖父の遺領を受け取って、伯爵家を再興した。
以後パーシーはヘンリー5世に仕え、1417年からスコットランド国境の警備を担当。1422年にヘンリー5世が亡くなり、僅か1歳の息子ヘンリー6世治下の新体制の初期には執政評議会にいた。
しかし、同じくスコットランド国境警備担当のソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとは仲が悪く、1448年のスコットランド軍の戦闘では仲間割れを起こして敗北した。この対立は薔薇戦争にも引き継がれ、パーシーはランカスター派に留まったが、ソールズベリー伯はヨーク派の首領のヨーク公リチャードと組んで戦争を引き起こした。1455年5月22日、パーシーは緒戦のセント・オールバーンズの戦いでランカスター側で戦い、戦死した。
ノーサンバランド伯爵は長男のヘンリー・パーシーが継いだが、1461年に戦死、ランカスター派のヘンリー6世が廃位されてヨーク派のエドワード4世即位すると、孫のヘンリー・パーシーロンドン塔に投獄され、爵位はソールズベリー伯の次男・ジョン・ネヴィルに与えられた。
== 結婚と子供達 ==
パーシーはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルとその2番目の妻であるジョウン・ボーフォートの娘レディー・エレノア・ネヴィルと結婚した。彼女の兄弟にはリチャード・ネヴィルセシリー・ネヴィルがいた。
彼らは10人の子供をもうけている。
* 第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー1421年7月25日 - 1461年3月29日
* キャサリン・パーシー公爵夫人
: エドムンド・グレイと結婚している。
* イグリモント卿トマス・パーシー1422年11月29日 - 1460年7月10日) - ノーサンプトンの戦いで戦死


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.